救済の烏滸がましさ

今年のうちに、私のなかの「なにか」は、きちんと回復するのだろうか。

 

ここ1〜2年で、ようやく、自分の手と足を自覚できたような気がしている。なにを掴み、どこに立ち、どこへ歩いていけるのか。

それでも、空虚なきもちは常に追いかけてくる。そういう病だ。もう無視するしかない。

 

祖母が亡くなった。旅の前半に出てきた祖母だ。あれが最後になった。

土日にバタバタと、青森に行った。火葬も通夜も葬式も間に合わなかったが、行った。今後、私は二度と青森の地を踏まないかもしれないと思い、行った。こういうとき、自分のみの決断で行動できること、そのお金が自分で稼げていることの大切さを、抱きしめる。

 

私は、なにをどうしようと青森の人間ではない。生まれも育ちも東京だ。東京の人間だ。青森に、私を救済してくれるものは存在しない。

 

そう思っていたが、帰りの列車で窓の外を眺めていたら、天国のような景色があり、貸切のような車内でひとり泣いてしまった。